【30代で甲状腺がんになった娘に、向き合い続けたお母さん】
<プロフィール>
母 田中はるよ さん(60代/パート勤務)
娘 ミホさん(薬剤師)
30代で甲状腺がんと乳がんを発症した娘に寄り添い、見送った母親の田中はるよさん。それから2年後、現在は田中さんご自身が多発性骨髄腫、乳がんの治療を続けています。
がん家族とがん患者の経験をもつ田中さんに、娘と過ごした日々、家族のこと、娘から受け取った言葉や思いについて伺いました。
田中はるよさんと、娘ミホさんが大切にしていたぬいぐるみ。
(写真は田中さん提供)
ー30代でがんを発症。仕事を続けた娘ー
――ご家族構成を教えてください。
田中:主人、私、子ども2人です。息子は結婚して県外で暮らしています。娘のミホは薬剤師で、実家(マンション住)である私たちの真向かいの部屋に住んでいましたが、お風呂などは私たちのところで済ませて、寝る前にに帰るという感じです。
娘の乳がん告知後は、娘の部屋で過ごす時間を多くするように努めました。
私は寝るのも一緒になったわけです。
誰に気兼ねもなく娘と居られた事。遅くまで話したことが忘れられません。
――どんな娘さんでしたか。
田中:さっぱり系でしたね。ネチネチ系の私とはデコとボコ(笑)、母娘の仲は良かったです。仕事が大好きで、後輩の面倒もよく見ていました。でも、家に帰るとわがままな一面を見せてくれることもあり、親としてはうれしかったです。
――ミホさんはなぜ薬剤師をめざしたのでしょうか。
田中:私の父が薬関係の仕事に就いており、私も同じ道に進みたかったんですが、父の意向もあり、あきらめたんですが、娘は几帳面なので薬剤師に向いていたと思います。
また、私は肝臓の持病があったので、娘も医療に関心がありました。薬剤師になってから、医学部をめざして勉強をしていた時期もあったほどです。
――ミホさんは薬剤師としての夢をお持ちでしたか?
田中:病院勤務、調剤薬局を経て最後はドラッグストアに転職しました。後輩を育てたい、薬のことをもっと勉強したい、それから自衛隊の薬剤師になる夢も描いていました。
――30歳代で甲状腺がんが見つかったのですね。
田中:娘が34歳のときでした。ちょっと前から太り出したのも、ホルモンのバランスが崩れていたからだと思います。娘はかなりショックを受けたと思います。
私は親として、「夢を折られてかわいそうだな」って……。
結婚もしていない、子どももいないとなると、夢がすべてじゃないですか。自衛隊の薬剤師になる夢は、あきらめざるを得ませんでした。
――手術を受けたのですね。
田中:悪性ではなく、転移もなく、一生この病気と付き合っていく人もいるのですが、娘は30代の働き盛り。これからのことを考えてリンパを取りました。親としては、この判断が正しかったのかどうか、のちに思い悩むこととなります。
ーミホさんに乳がんが発覚するー
――その約2年後に乳がんが発覚したのですね。
田中:健康診断をきちんと受けていましたし、乳がん検診ではエコーと、オプションでマンモグラフィーも撮っていました。実はそのときに石灰化が見られたのですが、「石灰化はがんじゃない」と言われており、それが暗黙の了解だったというか、スルーされてしまったんですね。ただ、その頃から体調を崩すようになりました。
――どういう状況で乳がんとわかったのでしょうか。
田中:娘が仰向けに寝転がってゲームをしていたときに、胸の上にコントローラーを落としたんです。あまりの痛さで病院にかかったところ、乳がんが骨に転移していたために肋骨が折れたとわかったんです。ただ、当初は手術と抗がん剤治療の方針と聞いていました。
――甲状腺がんのときと同様、手術をされたのでしょうか。
田中:「骨シンチグラフィ」で全身の骨への転移が見つかったんです。ステージ4と診断され、手術の選択肢はなくなってしまいました。「延命治療しかできない」と聞いた私は激しく動揺し、診察室で泣き崩れてしまいました。親として最悪ですよね……。
娘の方が、私を淡々と慰めてくれました。
――ミホさんと医師とのやりとりはいかがでしたか。
田中:やっぱり医療人、そして強い子です。医師に余命まで聞いていました。遺伝子の細かい検査などをする前でしたが、「おおむね3年~5年」と言われました。抗がん剤の治療中からどんどん悪化して翌年に逝ってしまう人もいるし、10年以上生きている人もいるということでした。
――5年生存率が10パーセントと言われたそうですね。
田中:私は「3年~5年」の短い方の「3年」と考え、娘と過ごす時間を凝縮させなきゃと思いました。いっぽう娘は、長い方の「5年」、あわよくばもっと長く生きるスタンスだったと思います。
――治療はどのように進められましたか。
田中:最初は分子標的薬が出されました。副作用で太りはしましたが脱毛はなく、仕事をつづけ、大好きなディズニーランドにも行っていました。あまりにパワフルなので「あなた本当にがんなの?」と言われるくらいでした。
でも、分子標的薬がだんだん効かなくなり、1年後4回にわたる化学療法を受けることになりました。発熱しながらもがんばって仕事をしていましたが、「できること」がどんどん減っていきました。例えば、副作用によるむくみ、指先の腫れは薬剤師にとって致命的なものでした。
ー娘ミホさんが、やりたかったことー
――それはつらいですね。
田中:娘を見て「楽しいだろうか、充実しているだろうか」と悩みました。ラクな延命とはいわないまでも、娘がやりたいと言っている仕事ができるための延命なら意味があるはずです。ですから娘には「お母さんを悲しませないために、つらい思いをしてまで延命してくれなくていいよ、自分のやりたいことを選んでね」と伝えました。
――ミホさんはどんな様子でしたか。
田中:「お母さんのために」ということを口には出していませんでしたが、その後、ドクターストップがかかり、4回の予定だった化学療法を3回で終えることになりました。なぜだか2人とも肩の荷が下りたというか、ホッとした部分はあったと思います。
――次に処方された薬は副作用の下痢がひどかったそうですね。
田中:娘は紙オムツをつけながら仕事を続けていました。その薬も3か月で終わってしまい、いくつかの飲み薬や化学療法を受けましたが、がんの方がどんどん強くなり、最終的に肝臓に転移し、それが娘の命を奪うこととなりました。
――入院中も仕事をされていたとか。
田中:入院中は外来窓口に立てるはずもありませんから、パソコンを持ち込んで現場とやりとりしていました。
――ご自宅でお看取りをされたのですね。
田中:最後の2週間は在宅で、私と娘が1番寄り添えた日々を過ごしました。4年半、光を求め、救いを求め、最期を認識したときには「こんなはずじゃなかったのに」といったことを語ったりもしましたが、本当によく闘いました。
娘は自分の生き方を、自分で選ぶ子だったんです。
最後まで自分の思いを貫き通したので、そういう意味では幸せだったと思います。
田中さんのお話しは明日も続きます。。。
次回は「がん家族のリアル」「母もがんに…」
この記事はインタビューをもとに書いています。治療の内容などについて、その療法をお薦めしているものではありません。また、患者の個人差などあることをご了承ください。
登場人物へのご意見はご遠慮ください。
書いた人のコメント
私は、がん家族の"クッション”のような存在でありたい。
がん家族が抱えるあらゆる気持ちをクッションのように受け止め、和らげるお手伝いをしたいです。
文 仲山さとこ
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仲山さとこ – コピーライター/プランナー
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著作/制作 一般社団法人Mon ami
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